『有田と週刊プロレスと』 Season1 No.020~衝撃の道場破り事件!プロレス界を揺るがした「最強の男」とは!?~

格闘技プロレスの歴史

放送日は2017年4月5日、ゲストは引き続きプロレス大好きケンドーコバヤシ。週刊プロレスは、1994年12月27日号(No.648)。

Uインターの安生が何故か血まみれの表紙。この号を見たときに有田とケンコバは絶叫!!グレイシー一族との闘いに向けた格闘技プロレスの歴史が今語られる。

その内容をちょびっとご紹介。

第2次UWF解散のその後

Season1 No.016で語られたように、第2次UWFは解散し、3つの団体に分かれた。

高田延彦をトップとした『UWFインター』、藤原喜明をトップとした『藤原組』(後に船木・鈴木らが独立した『パンクラス』)、前田日明の『リングス』である。

今回の話の中核は『Uインター』。“最強”の看板を掲げ、様々なところに喧嘩を売っており、『Uインター=最強』が定着しつつあった。

そのようなときに、海外で事件が起きていた。

『パンクラス』の外国人中核レスラーの『ケン・シャムロック』が、アメリカのUFCというトーナメントに参加した。ルールは目潰しと噛みつき以外はOKと言うような内容。

活躍が期待されたが、脇役のような謎の人物に1分もかからずに負けてしまう。

その脇役のような相手というのが『ホイス・グレイシー』だ。

他の大会でも優勝したホイス・グレイシーに「あなたが世界最強ですね」とインタビューすると、なんと「うちの兄は10倍強い」と言うではあ~りませんか。

みんな「えっ、マジか。誰だそれは?」と調べたところ出てきたのが『ヒクソン・グレイシー』だった。

そのヒクソングレイシーを日本に呼んでトーナメント大会を開催したところ、あっさりと優勝を勝ち取る。最強である。

そのムダのない勝ち方に世間はざわつく…そして、「今までのプロレスは何だったの?」となってしまう。まさに黒船が来たのである。

そこで言われだしたのは「あれっ、Uインター最強じゃなかったの?グレイシーとやれよ!!」というような声が世間から上がりだす。

その声に後をおされるように、Uインターの中で実は最強じゃないかと言われていた安生がグレイシーの道場に『道場破り』をすべく、ブラジルに渡航。

結果は完全に返り討ち。安生はボコボコにされてしまう。

安生は飛行機で眠れずに、酒をアホほど飲んで体調がよくなかったなどの噂はあるが、まあ負けは負けである。

その結果、ますます「本当に強いのか?」と、『Uインター』は追い詰められる。

そのようなこともあり、『Uインター』は資金繰りが厳しい状況にあった。高田としてはもちろんヒクソン・グレイシーとやりたいが、団体のトップとしては簡単ではない。

そこで開催したのが『Uインターvs新日本プロレス』である。Season1 No.001&002をご覧いただきたい。

ただ、試合は盛り上がったものの、Uインターの経営は劇的には改善しない。

高田はその後、経営トップの座から降りて、独り身となった状態で、ヒクソン・グレイシーとの闘いに突入する。

試合観戦記

〇1993年11月12日 『ホイス・グレイシー vs ケン・シャムロック』

試合はこちら

〇1993年11月12日 『ホイス・グレイシー vs ジェラルド・ゴルドー』

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